美しい風景のなかを歩いたり、心洗われる風景に出会ったり・・また何の変哲もない
風景のなかを通ってきたと思う。
たとえば、秋田では今頃 夏の暑~い盛りでも、郊外を歩くと 何かの草(雑草)が
わがもの顔で・・ガードレールのついた道にさえ生えていて、それはまさに殺風景
そのものである。
小説「七人の乙女」に「その辺はちょっとした小型の高い高原のような場所だった。」
とある。「小型の高原」とは美しいが、実際には、普通の高台だったかも知れない。
描かれると姿を変える。特徴を身に付けるのである。
こうした地味な風景があることで、言葉が生まれ、思いも生まれた。人から見放され
たかのような風景にも意味があるのだ。人はみな、それらと一緒にとても長い時間
を過ごしてきたのだ。そんな風景を目にすると、そばに行って話のひとつも聞きたく
なる。家族はいるのか、友人はどうか、将来は何になりたいのか・・。心境を知りた
い気分になる。心の深いところで親しみを感じることもある。でもそれ以上のもので
はない。特別なものではないからだ。そんな気持ちで、今日も風景を見ている。
現代詩作家「荒川洋治」氏の随想から
秋田市内の公園口での睡蓮の花。写真奥は秋田駅西口になります。
先にオーダーいただいた 「革聖書カバー」です。
相変らず人気の茶色「つたの花」
革聖書カバー・茶色 「横向きの羊 イラスト」と・・
となりは、かなり小さ目な携帯電話の革ケースもモデル
になってもらいました。